海外特派員のコラム

今日の朝日新聞の朝刊で、海外特派員のコラムについて考えさせられることがあった。日本のメディアではイラクで数ヶ月にわたり人質になっていたフランス人ジャーナリストの名前は掲載されても、イラク人助手の名前が載っていなかったことについての内容だ。フランスではイラク人の助手も顔写真入りでヒーローとして扱われていたが、日本のメディアではまったく助手の存在を忘れさせるような記事内容であることについての特派員の思いが綴られていた。
内戦の終わったカンボジアで思い出すことがある。日本が戦後初めて組織的な軍隊をカンボジアに派兵するPKOのため、自衛隊の調査団を追っかけ取材していた時のことだ。ポルポト派の残党が潜む南西地区を移動していた時、車がぬかるみに脱輪して抜け出せなくなった。周りはおそろしく静かな田園地帯の一角。人っ子ひとりもいない場所だ。
同乗していた記者は運転手、助手を見捨て、別のメディアの車に乗り換えて取材を続けたが、私は助手や運転手のことを考えて、現場に居残った。
大した取材ではなかったのだが、記者はどうしても行くというので、好きにさせたが、私は腸が煮えくり返る怒りを感じた。助手たちの命を守ることはできないかもしれないが、手立ては最大限に考えるべきではないだろうか。私が居残った理由はそれだけだった。助手、運転手は特に雇用契約のない、フリーだったが、長年、つれそって危ない橋をわたってきた仲間でもあった。見捨てるわけにはいかない。見捨てることはジャーナリストの倫理観にも劣る行為の一つとも考えられる。
一人一人ばらばらでいるより、一緒に行動していた方が良いと判断して、助手、運転手、私の三人は数キロほど離れた集落まで歩いて、助けを求めた。
幸いにもトラクターを持っている村人と出会い、無事に車をぬかるみから上げることができた。その間、1時間とちょっとのことだった。幸運にも何事もなく、急いで調査団を追いかけた。
私は当時のプノンペン臨時支局に戻ると、先輩記者を怒鳴りつけた。相手もさすがに後ろめたい気持ちがあっただろう。すぐに助手、運転手に謝りの言葉を述べた。
多くの日本のメディアにとって、助手は単なる捨石のように見ている風潮は強い。尊敬する元ベトナム特派員から話を聞いたことがあった。泥沼のベトナム戦時中に同じ釜の飯を食った助手が亡くなった時、彼は何らかの慰労金を家族に渡そうと会社に掛け合ったが、上層部は「10万円もあれば十分だろう」といい、助手の命を軽く扱う風潮を嘆いていた。
金額の問題ではなく、「人権」「人格」の問題である。私は、恐らくこの話を聞いていたので、自らを戒めることができたのかもしれない。
第三世界の助手の命は、同じように重いいのだ。