第1話 目白御殿前の巨大脚立

目白御殿といっても今の若い人にはピンと来ないかもしれない。ロッキード事件の汚職で、歴代首相として初めて東京地検特捜部に逮捕された故・田中角栄の自宅のことである。田中真紀子議員の父親でもある。

入社したての昭和六二年正月。新人の私は正月勤務のローテーションに入っており、新年早々、会社に顔を出し「明けましておめでとうございます」を言う間もなく、デスクから「目白のお屋敷に行ってくれ」と言われた。最初、どこのことやら分からずに、「えっ?」と聞き返すと「田中角栄の自宅だよ」と呆れながら言われた。

「Hがすでに行っているので、引き継いで」と言われ、車手配の伝票を用意して社を後にした。

正月だというのに、田中邸の前には報道各社のカメラマンが陣取っていた。陣取るというより、高さ五メートルほどもある脚立の上で望遠レンズを付けたカメラを構え、訪れてくる「田中詣」の自民党議員と会う、角さんの写真を撮影しようとやっきになっていた。

塀越しに撮影するには訳がある。田中角栄は、逮捕後に巨額な保証金を積んで釈放されたが、一九八五年に田中派の元竹下登首相(当時は大蔵大臣)が勉強会「経世会」を立ち上げたのだった。派閥領袖の角栄氏は猛烈な切り崩しを行うが、その最中、脳梗塞で倒れてしまったのだ。言い方は悪いが、飼い犬に手を噛まれた結果となった。二年後には経世会は竹下派として独立を果たした。

脳梗塞で倒れた田中角栄は自宅で療養を続けるのだが、映像としてマスコミの前に登場することがなくなってしまったため、報道各社はこぞってスクープ合戦に乗り出したのだ。そこに正月の「田中詣」。またとないチャンスでもあった。

もっとも当時の私は詳しいことをほとんど知らず、巨大脚立に上がっていったのだが、正直言って頂上は怖い。少しの振動でも揺れる。足場はしっかりしているのだろうが、何とも頼りないのである。

脚立の上には望遠レンズ(確か四〇〇ミリにテレコンバータが取り付けられていた)が三脚で固定できるようになっていた。椅子にすわるようには出来ていないので、脚立上段部分の段に足をかけて、撮影するしかなかったので、何時間も脚立の上にいるわけにはいかなかった。田中邸に人が訪れてくれば、撮影のために上に登ったように思う。

結局、正月のこの日は脚立から撮影した「スクープ」は撮れなかったのだが、翌々日(一月三日)の毎日、読売の朝刊一面写真を見て驚いたことは鮮明に今でも覚えている。
 なんとそこには、木遣りを見る田中角栄本人の写真がでかでかと出ているのだ。いわゆる特オチというやつだ。他社の紙面に出ていて、自分の属している新聞に出ていない重大ニュースを「特オチ」と業界では呼ばれている。

そのために編集幹部が写真部にやってきて、「どうしてうちは、写真が撮れていないんだ」と怒りにまかせてデスクを非難し始めた。デスクも最初、要領がつかめないので、当日の仕事割振り帳を確認すると私の名前があるので、いったいどうなっているんだと詰問される始末。H先輩は引き継いだ後、目白御殿を後にしているので、当然、私の責任は大きいはずだった。ところがよくよく調べてみると、他社の写真は田中邸内で同じ目線で撮影したもの。脚立の上から狙ったものではないし、それほど鮮明ではなかった。

では、一体誰が撮影していたのか?

結論を言えば、番記者が一緒に政治家と入ってコンパクトカメラで撮影したのだった。朝日の記者はカメラを持参していなかったために撮影していなかった。当時の風潮として政治部、経済部といった編集の世界でヒエラルヒーが高い部署の記者は自分でカメラを持ち歩くことはほとんどなかったために、こうしたミスが起きた。

余談になるが、両部のインタビューの撮影依頼を受けて指示された場所に行くと、心無い記者は「今日はカメラを連れてきました」と平然と相手に話していた。おいおい。カメラを連れてきたなんて、俺たちは記者の私有物じゃないぞ、と後から同僚や似た様な思いをしている他者のカメラマンと愚痴を言い合ったものだ。

さらに余談を続けると、朝日では記者からの撮影依頼の紙を「黄紙(きいがみ)」または「イエローペーパー」と読んでいたが、毎日新聞はその依頼書が赤い紙だったので、「赤紙(あかがみ)」といって、戦前の一銭五厘の召集令状のハガキのように揶揄していた。

ともあれ、私の記憶の中にはあれ以来、大脚立を使ったことがない。今も朝日新聞内の倉庫に眠っているのだろうか。いっそのこと、新聞博物館に時代の証言の一つとして、寄贈して、ちょっとした変り種の展示品(来館者に実際に登ってもらうなど)として活用してもらえると面白いと思う。