第4話 昭和の終わりは脚立の上から〜「天国の半蔵、地獄の東宮」〜

新聞社で連日、脚立の上で過ごした記憶の中で最も印象に残る出来事は何かと質問されれば、昭和天皇の様態悪化から死去まで続く百十一日間の「張り番」生活と間違いなく答える。

張り番は昭和六三年九月一九日、昭和天皇が吐血し、入院したことから始まる。様態は一進一退一体を繰り返していたが、ガンの末期症状だったこともあり各社はXデー、つまり天皇死去に備えた。各社総動員体制をしき、二十四時間体制で皇族、侍従長、侍医らの動きを追うため、皇居・赤坂御所出入り口門に大勢の記者・カメラマンが張り付いた。門に張り付いているために「門番」と雑誌メディアから揶揄された。

町から派手なネオンライトが消え、賑やかなテレビコマーシャルは画面から消え、プロ野球の優勝の騒ぎも無くなっていった。このような自粛の動きは全国各地に広がった。

マスコミ各社の報道姿勢が問われたが、その問題は後述するが、いずれにしても昭和の終わりをカメラマンたちは脚立の上から記録した。

この時、張り番の場所によって「地獄の東宮、天国の半蔵、キャップ次第の宮内庁」と写真部の中で語られていた。

東宮とは東宮御所、半蔵とは皇居半蔵門、宮内庁は皇居内にある省庁を指すが、私は社内で地獄と呼ばれていた場所の張り番に一番多くついた。これら一連の天皇報道で最初に向かった先が東宮御所だったために慣れていると思われたのかしれないが、割り振りの度に「またか」と嫌気がさした。もっともだんだんと開き直っていったが。

何故、地獄なのか? その前に天国の半蔵について説明しよう。

半蔵門は皇居西側にあたる門。門の脇には皇宮警察の詰め所があり、千鳥が淵公園が広がる。門前で内堀通りと新宿通りが交わり、交通量は多い。

報道各社はここに大きな、それこそ運動会に使う畳十畳以上もあるイベント用テントを4張りほど設営した。そこに簡易ベッド、毛布、ガスランタン、石油ストーブなど豊富な日常生活用品が用意された。公園でビニールシートや段ボールを利用して暮らす路上生活者から見れば、豪華ホテルのようなものだ。尚且つ、お見舞いや危急の時に皇太子一家が東宮御所を出る予定時間から、到着予想時間まで教えてもらえる。

現場を離れることさえしなければ好き勝手ができる。読書三昧、携帯テレビの見放題、なんでもあれの世界だ。雨露を凌げ、会社から朝昼晩と弁当が届けられるほか、おやつ、深夜食まで支給される。昼寝も堂々とできるために仕事上の不満は少なく、体力的にもかなり楽だ。また、カメラマンは二人体制だったので、撮り損ねる可能性も限りなくゼロに近い。気持ち的にも楽だった。そのために「天国」と呼ばれた。

次にキャップ次第の宮内庁について。

宮内庁には皇居南の坂下門から入る。カメラマンは宮内庁前の駐車スペースに待機している電送車を根城にして、四―五人の同僚カメラマンと交代で宮内長官の会見や蓮池参集所近辺で侍従長が登庁する様子の撮影をした。二十四時間勤務だが二~三時間で交代する。朝刊の締め切りが終わると、暖をとるという名目でアルコールが振舞われた。風や雨露が凌げ、暖房の効く電送車の中は快適なのだが、その居心地は「キャップ」と呼ばれる上司の人柄に多分に影響されたために「キャップ次第の」と呼ばれるようになった。

で「地獄の東宮」である。

東宮御所には皇太子一家や宮家などの直系皇族が住んでいる。中は広大な杜が広がり、閑静だが、門外を出ると、景色は一変する。

その門の外側、つまり歩道幅約四メートルほどの東宮御所東門脇で脚立に座るなりしてカメラマンは待機するのだが、一切の情報もなく、いきなり目の前の門が開いたかと思うと、皇太子(現・平成天皇)一家を乗せた車が通り過ぎていく。環境は劣悪。目の前は交通量が多く、排気ガスを自然に多く吸い込む。トイレも近くになく、目の前の五十メートル幅の道を渡り(信号、歩道橋のある場所までは何百メートルも離れている)、カナダ大使館わきの公園まで行かなくてはならない。片道に最低、五分はかかった。トイレに行っている間に「何かが起きたら」と想像するとトイレにさえもいけない。

張り番を続けて一カ月ばかり過ぎた頃だったろうか。生理現象は抑えられないと遠く離れたトイレまで行って帰ってくると、他者のカメラマンが、「さっき、(原稿、フィルムの受け渡しをする)オートバイさんが来て、『野口はどうした? いないだと? そんなことじゃあ、あいつは駄目だ』って言っていたけど、オートバイさん、実に威張っていたなあ」というではないか風体を確認すると、オートバイ好きな出版写真部長と似ている。土産に置いて行ったと思われる手作りの御煮しめに、一通の書きなぐりのメモがあった。そこのは「一瞬の油断が命取り」と書かれてあった。

ともあれ、数時間ごとの交代もなく、同僚カメラマンもいない現場で二十四時間ぶっ通しの一人だけの張り番だ。この年は秋の雨が長く続き、何日も降り続いては止み、また降り続くというような気候だった。その雨も終わり、本格的な冬がくるが、半蔵門、宮内庁のように設備が整っていない中での張り番は、体力的にも消耗するだけでなく、いつ、皇族が動き出していくか分からないために、常に神経を張り詰めていなければならなので精神的にも消耗するので、「地獄」と呼ばれるにいたったのだ。

余談だが、この場所にストリートキングまでお目見えしたので、本当に油断できない場所であった。

張り番する場所は違っていても、翌昭和六四年一月七日早朝に昭和天皇が亡くなるまで、カメラマンたちはこのようにして脚立の上から昭和の終わりを見つめた。