第5話 昭和の終わりは脚立の上から ~下町と高級住宅街の変遷を追体験~

地獄の東宮での張り番生活は、最初の一月ほどは長雨で泣かされた。脚立の上に座り、傘を差しながらの待機が続く。首には無線機、ショートズームを付けた一眼レフカメラ。このカメラには「ミニカム」と呼ばれる巨大ストロボが付いている。さらに右肩には予備のカメラと、ミニカム用のバッテリー(軽自動車のバッテリーの半分ほどの大きさ)を下げている。

ずしりと重い。総重量はどのくらいあったのだろうか。さらにカメラ類は精密機器。雨に弱い。ビニールなどでいくらカバーしても、さめざめと霧雨のように降る秋の長雨には勝てない。細かい雨粒はレンズ、カメラを霧吹きでかけたように濡らす常に機材の状態に気を使わなければならなかった。普通使っている大きさ傘では雨が容赦なく降りこんでくるために、だんだんと傘の幅は広くなり、ビーチパラソルのような傘を使うようになっていった。

ところが大きな傘は長時間、手で持っていると疲れてくる。せめて両手が自由にならないものだろうかと思った。

ある時、どこの社のカメラマンだったか忘れたが、三脚に傘を取りつけて気楽そうにしていた。この手があったかと、その日のうちに、ほとんどの新聞カメラマンは真似をした。しかし、いくら大きな傘でも、横風などが吹けば、雨はたちまちのうちに降りこんでくる。そこで、傘にビニールを筒状に垂らした。十月ともなれば、さすがに東京でも寒くなるが、ビニールで囲まれた中はほんのりと暖かく、雨に濡れる心配もなかった。

快適だ、と思っていたら程なく、皇宮警察が横槍というか苦情を入れてきた。

「皇族方の家の前で、みすぼらしい格好でいられるのはよろしくない」

確かに、路上生活を強いられている方々には失礼だが、報道各社の格好は路上生活者のようで、見栄えはよろしくない。

テレビ局、特にNHKはその苦情を受けて、バードウオッチング用の、人が立っていてもすっぽりと入る立法型のテントを真っ先に購入して、現場に配置した。

その時まで新聞社のカメラマンとテレビ局のカメラマンは入り乱れながらも、整然と門の前で並んでいた。が、NHKのバードウォッチング用のテントの導入で、撮影位置の話し合いをしなければならなくなった。

なぜか話しあいなのか。テレビカメラマンは右肩に普通はカメラを構えるために左から右にパンがしやすく、長く撮影できる。一方、新聞のカメラマンは顔の中心にカメラを押しつけるようにして構えるために、特に右や左などの制約がないので、かくして東宮御所の門に向かって右側が新聞カメラマン、左側がテレビカメラマンという配置となった。

NHKに続けと、民放テレビ各社はバードウオッチング用テントを購入していったまたたく間に門に向かって左側にはきれいなテント群が立ち並んだ。

まるで門から公道の国道246に通じる間に、門幅の広さで川が流れているかのように左右の環境は歴然とした。我々、新聞カメラマンはテレビカメラマンがいる方を「川向こう」と呼んだりしたが、川向こうは「高級住宅街」のように見えた。新聞社側の川の「此方」は下町の風情よろしく、バラックの建物のように、相変わらず傘にビニールをぶら下げたままで待機を続けていた。

新聞社はテレビに比べると予算的には乏しいが、それでもテントを買えないほど金に余裕が無いわけではないが、新聞写真部は多くの社が昔の体育会系なために、なかなか物質的な支援が得られにくい。どういうことかというと、精神論が常に前面に出てくるためだ。「テレビはバードウォッチング用のテントで…・」と写真部に訴えると、「泣き言をいうんじゃない」的なことを言われてしまう。もっとひどい言い方をすると、太平洋戦争のガダルカナル島作戦のようなものだ。後方支援もなく、食料は三日分。弾も武器も満足にはない。あるのは精神論のみ。敵、米兵は弱い。すぐに飛行場を奪還して、敵の兵糧と武器を奪え、みたいな戦い方を強いられる。

少し言い過ぎたかもしれない。話を戻すと、かくして東宮御所前に「下町」と「高級住宅街」の区分が出来あがった。

それからは戦後住宅の変遷史のような感じになった。

共同通信社が、新聞各社の中でいち早くバードウオッチング用のテントを買い、下町から脱出して、テレビ各局の「一等地」に移り住んだ。

他の新聞各社は羨んだが、ほどなくして次々に、我ら下町にもバードウオッチング用のテントが立ち並ぶようになっていった。しかし、「高級住宅街」の住人は新たな住宅の建設に乗り出していった。ホームセンターなどで売っているパイプと接続用具を使い、畳1畳から2畳分ほどの広さの枠組みを作り、厚めの透明ビニールを綺麗に張り合わせて、出入り口付きの「家」を作っていったのだ。

またしてもテレビ局に差をつけられた。食事の弁当にしてもしかり。各社とも本社から弁当が送り届けられるのだが、「隣の家の芝生が青く見えた」のかもしれないが、なんといても豪華な幕の内弁当なのだ。こちらは、どこかの弁当屋の海苔鮭弁当を少し良くした程度。しかも冷めている。晩秋から冬にかけて、ぼそぼそとした冷や飯を食べていると、情けない気持ちになってくる。テレビの弁当を見ると、湯気が出ているではないか。張り番の楽しみは食べることが重要なウエートを占めるほど、張り番生活も長引いていた。せめて、暖かい弁当が食べたいと誰もが思うところだ。

もっとも、そのうちに、画期的な弁当が運ばれてくるようになった。弁当箱は二重底になっていて、紐を引っ張ると、弁当箱の底の部分に用意してある水と石灰で化学反応が起こり、熱が発するというものだ。だから食事の前にひもを引き、約五分待てばほくほくと暖かいご飯が食べることができた。新聞社の原稿係りと呼ばれる編集補助のアルバイト学生が見つけてくれた。本当にありがたいと感謝したものだ。

話を元に戻すが、大げさな例えだが、各社のカメラマンは東宮御所前での生活環境の変遷を「まるで、人類の住まい史のようなものだ」と認め合った。

最終的には、十二月に入った頃には我々、下町にもビニール張りのテントが立ち並び始め、ようやく「高級住宅街」に追いついた。

ところが当然のことながら世間は「高級住宅街」とは思っていなかったらしく、忘れもしないクリスマスイブ、近くのキリスト教系の病院の看護婦さんたちが、我々をみすぼらしく思ったのだろうか、クッキーを差入れてくれたことがあった。その時の一言が強烈だった。「ここにお住まいは大変でしょうねえ」。

「ま、待ってくれよ。ここには住んでいないのだって」と誰もが口にしようとしたが、その言葉を発することはなく、ありがたくクリスマスイブのプレゼントを頬張った。

大晦日の時には、すぐ脇の豊川稲荷へ初詣する人たちが、我々の前を行き来していた。その時、子どもが「ここに人が住んでいるよ。可愛そうだね。家がなくって」と父親に話しかけていたこともあった。

圧巻だったのは、忘年会のシーズンたけなわのころ。タクシーがビニールテント群の立ち並ぶ脇に急に止まり、酔客が降りて、いきなり嘔吐し始めた。共同通信社のテントの裏手。怒った同社のカメラマンは「ちょっと、ちょっと。ここに人が住んでいるんだから、こんなところで吐くなよ。綺麗に片付けてって」と酔客に文句を言い始めた。言われた方もびっくりしたらしく、「おや、こんなところで住んでいるとは知りませんでしたなあ」と平謝り。傍目で見ながら、「共同さん、ちょっと言い過ぎだけど、気持ちはわかるよな」とことの成り行きを見守っていると、酔客は素手で片付け始めた。慌てた共同のカメラマンはさすがに申し訳無いと思ったのだろう。ホウキ(今、思えば何故あったのだろうか不思議だが、うっすらとした記憶に、皇宮警察から毎日、「生活空間」を綺麗にすることを言い渡されていたのかもしれない)と新聞紙を用意して、一緒に片付けながら会話をしあっていた。

酒盛りもした。鍋もつついた。あまり派手にすると皇宮警察からお咎めがあるので、それなりにおとなしくしていたが、警察も見て見ぬふりをしていてくれたのだと思う。

ある時、産経新聞の仲の良いカメラマンが「仕事の内容を子どもに聞かれたら、今の仕事は言えないなあ」と話しかけてきた。当時、二人とも独身だった。時代を記録するため、と大見栄を切れるほど張り番は格好の良いものでは無かった。それどころか、こうした報道姿勢に疑問さえを感じていた。いつ終わるともしれない張り番。このような取材に何の意味があるのだろうか、などと。しかし今、こうして振り返ると「張り番も、思い出としては悪くはなかったなあ」と思えるのだが、当時はそんな余裕など、どこにもなかったこ

とだけは確かだ