第6話 昭和の終わりは脚立の上から~上からの撮影は不謹慎?~

昭和天皇の危篤が伝えられたのは一月七日の未明だった。東宮御所での張り番を前日の午後七時過ぎに後任者に引継ぎ、当時住んでいた三鷹の寮に帰って同僚と缶ビールを片手に話合っていた時にポケットベルが鳴った。

ポケベルの音は二種類あり、社内でピーピーという通常の呼び出し音と、ピピピピという緊急時の呼び出し音で連絡の重要性が分かるようになっていた。まだ、携帯電話は一般には普及していなかったため、写真部に電話をかけると「至急、社に上がってくれ」と上ずった声でデスクが短く伝えると切れた。

同僚とタクシーをつかまえ出社すると、「皇居前広場の様子を撮影してくれ」と行き先を指示された。午前五時過ぎのことだったと思う。

現場は暗く、細かい雨が降っていた。私は赤いポンチョを着込み、八段の脚立を広場にセットして事の成り行きを見守ることにした。各社のカメラマンが現場に続々と到着していく。

同僚や同業他社のカメラマンたちと、「ひょっとしたら、乃木大将のように死を悼んで割腹自殺する人が現われるかもしれないな」「泣き崩れる人も出るな」など、亡くなった後の状況を推察したりしていた。

様態を案ずる人々が少しずつだが皇居前広場に集まって来ていた。

脚立の上に登り、背景に宮城が写り込むように撮影をしていた。その時だった。迷彩色の戦闘服を着た右翼らしき人が、私のポンチョを引っ張り、引きずり下ろそうとした。

「危ないじゃないですか」と柔らかに抗議すると、相手は「失礼ではないか。赤い派手なポンチョで、しかも高い位置から写すとは何事か」と怒っている。

数回の押し問答をしていると、外国通信社のAP通信カメラマンが助け舟を出してくれた。

「止めなさい。私も赤いカッパを着ている。何が不謹慎だ」と相手を制してくれた。右翼らしき人は、納得せずなおも執拗に私のポンチョを掴んでいる。各社のカメラマンがやってきた。「どうした。何が悪い。今は色の問題ではないはずだ」と詰め寄ってくれたおかげで、男はあきらめて立ち去っていった。

赤い色。確かに「不謹慎」だったかもしれないが、事が緊急だったために、私もそういった配慮はできなかったのは確かだ。

こうしている間に、皇族方は最後を看取るために続々と皇居を訪れていた。

午前六時三三分。「崩御」が一斉に各社に伝えられた。しばらくして日が昇ってきた。あたりは薄明るくなっていた。見渡すと土下座して泣き崩れる人々あちらこちらにいる。しかし思ったほどの人数ではなかった。宮城に向かって平伏している集団を見つけると、各社はその後ろから撮影をした。

 

昭和の終わりを表す一コマだろうか。この写真は右翼礼賛にしかすぎないだろうか。しかし、考え過ぎていては撮影ができない。目の前で起きている事を記録するしか、今の私には出来なかった。

崩御か逝去か。部員間を含め、以前から用語の使い方で議論がなされていたが、沖縄の地元新聞を除いて新聞の見出しには「崩御」という大きな活字が使われた。

この日の午後、新元号「平成」を小渕内閣官房長官(当時)が宮内庁で厳かに発表した。

昭和は事実上終わった。

 

翌月二月二四日、大葬の礼が執り行われた。皇室の慶弔行事に伴い祭日となった。普段、日祭日は夕刊の発行がないが、この日は例外となった。

昭和天皇の遺体を乗せた車は式が行われる新宿御苑に向かう。途中のビル・ホテルなどを利用して高い位置から見下ろしての撮影を自粛して欲しいとの要請があった。わかりやすく言えば取材規制だ。3万2千人に及ぶ厳しい警備体制もしかれた。マスコミ各社は要請に従って高い位置からの撮影をやめた。

高い位置からの撮影は、やはり不謹慎なのだろうか。まるで不敬罪が今でも生き延びているかのようだ。戦後、「現人神」から「人間」への宣言が行われたが、地下水脈のように天皇タブーは社会で受け継がれている。それは脚立の上で皮膚感覚として感じた。

私は新宿御苑で大葬の礼取材の配置についたが、撮影できたことといえば車で訪れる閣僚や要人をねらっただけ。世界各国からのメディアの取材の様子を記録しただけだった。海外のメディア、特にフランスのカメラクルーはタバコを吸っては、玉砂利の上に吸殻を捨てていたのが印象的だった。

式が終わり、一息つく間もなく、皇族を狙ったテロの一報があった。中央自動車道に時限爆弾が仕掛けられ、爆発したものだった。

私は先輩から借り受けた喪服を着たまま現場に向かい、泥んこになりながらも近づいた。が、ほとんど何も撮れなかった。

ヨゴレ姿で戻ってきた私を見た先輩は、「君にその礼服をあげるよ」といって労ってくれたが、ほとんど服は使い物にならないと思ったのかもしれない。

しかしその礼服は今も現役で、自宅のクローゼットに吊るされている。