第26話 戦場のもう一つの風景その2 ~戦場のメリー・クリスマス

東欧革命で唯一、流血の惨事となったルーマニア。新聞社に勤めて、初めて社費で海外出張した現場でもある。

「国境物語その1」で前ぶりを書いたが、結局、革命の当日、日本の新聞社として最初に現地ルポを打電できた。

もう二度と入れないと思ったルーマニア。実は国境で追い返された翌日に革命が始まったのだ。私は懲りずに、国境から流れてくる難民の取材を試みていた。ハンガリー労働党に属していたという通訳兼ガイドとドライバーの三人で国境に出向いていた。

当日、私は風邪をこじらせていたので出発が遅れ、現地時間で正午ちょっと前に国境に着いた。すぐに取材に取り掛からないといけなかった。ベースにしていたホテルに戻ってからフィルム現像をして、それから電送する時間を考えると余裕がない。ところが、通訳は「ああ、ちょうど昼のニュースの時間です。聞いてからにしましょう」と呑気なことを言い出した。私は半ばあきれてしまった。

ニュースが始まって間もなく、通訳は「ホー」と奇声を上げだした。何事かと思い、たずねると「ちょっと待ってください。ルーマニアで大変なことが起こりました」と言ってからまたニュースに集中し始めた。

私はなぜか焦った。

「何がおきたのだ」と聞くが、口の前に一本指を立てて、しゃべるのを静止させるだけ。一体、何がおきたというのだ。

私は腹立たしくなってきた。その時間は五分もあっただろうか。ニュースが終わると通訳は日本語を確かめるように、「今、ルーマニアでは…」と長ったらしく説明を始めだした。私は「説明はどうでもいいから、何が起きたのか教えてくれ」というと、「ルーマニアで革命が起きました」というではないか。それも平然とした顔で。

何でそれを真っ先に言わないんだろうかとむくれてしまったが、気を取り直して、次に打つべく一手を考えた。

今、国境にいる。ということは、入国競争では私が一番乗りに違いない、と悟った。通訳に「すぐに出発しよう」というと、「私たちは今、パスポートがないから出入国できない」とまたゆったりと話し出した。

じゃあ、どうするか。ヒッチハイクしかないかと思っていると、通訳は機転をきかせてくれてとにかく国境のゲートまで連れていってくれて「ここでおそらく、食料とかを運ぶ車が来るはずなので、頼んで乗せてもらうことにしましょう」と言ってくれた。

三十分ほどすると、赤いピックアップバンが猛烈な速度で国境ゲートまで近づいてきた。私はすでに出国のスタンプをもらっていた。通訳が話すところによると、別の町にいくので、近隣の大きな町の分岐点までなら乗せてくれるという。

車を選んでいる時間もない。二つ返事でOKするとルーマニア国境のゲートへ出発。昨日あった国境警備員がいる。「革命万歳」と喜びながら抱きついてくる。すぐに入国許可のスタンプとビザを発給してくれた。昨日の態度とまったく逆だ。おまけにタバコはないかなどとせびってくる。仕方なくタバコを一箱プレゼントした。

何十キロ走っただろうか。道が大きく二つに分かれるところで、ドライバーは「ここまでだから。ここに立っていると車がくるので、つかまえてくれ」というので、私は車を降りて別れを告げた。

車が去っていくのを遠目に眺めていると、すぐに別の乗用車がやってきた。私はすかさずヒッチハイカーよろしく、車に止まってもらうように親指を突き立ててサインを出した。

運良く二人連れのジャーナリストと思しき男性が「ティミショアラ、アラドまで行くから」と便乗させてくれた。

乗ってすぐに気がついたのだが、パスポートが無い。前の車に忘れたに違いない。

運転する人にその旨を話すと「俺たちも急いでいる。あきらめろ」とおいうので、しつこく食い下がったら「仕方がない、君を乗せたところまでだったら戻ってやる」と言われた。そして追い討ちをかけるように「もう見つからないだろうけど」。

私も駄目だと思ったが、何と、私を降ろした先一キロほどのところで兵士数人に囲まれて食い物、飲み物を物色されていたのだ。

こりゃ運がいいと思い、車のダッシュボードの上を見ると赤い日本のパスポートが置いてあった。

急いで車に戻り一路アラドの町に向かった。約一時間で着くと、何万という人々が市役所らしき建物を囲んでいた。トラックにはパンが積まれ、荷台から兵士が市民に配っていた。

私は写真を送る手段を持っていなかったので、せめて現場からの一報だけでも日本に伝えなければならないと思い、群衆を掻き分けながら市役所に向かった。

入り口には警備についていた革命軍が身分証明書のチェックをしていた。私は朱色の日本のパスポートを提示すると、「はるばる日本からかですか。何かお望みのことがあれば我々に言ってください」と笑みを投げかけた。

駄目元と思い、「日本に電話がしたい」と要望を告げると、警備をしていた女性が「わかりました。私の後をついてきてください」と話す。庁舎に入り、ヒンヤリとする石の階段を折り、地下の一室に案内してくれた。ドアを開けると、何とそこは電話交換室だった。

係に日本の新聞社の電話番号を伝えると、早速、電話をかけてくれた。しかし何度やってもつながらない。これは駄目かもしれないなと思っていたら、電話係は機転をきかせてくれたのだろう。イタリアのローマ経由の国際電話を試みてくれた。果たして電話は繋がった。(後日談だが、当時、日本とルーマニアを結ぶ電話回線のルートは2つしかなかったという。その回線を在ルーマニア日本大使館が繋げっ放しで確保していた)

嘘だろうと思いながら、電話をとる「朝日新聞社でございます」というではないか。私は切れることを恐れながら、事情を話し、写真部につなげてもらった。

電話に応対してくれた先輩は「おお、今、どこだ。君をずっと探していたんだけど」と非常にのんきなことを聞いてくれるので、「ルーマニアです。ルーマニアに入りました」と事情を説明しているうちに「とにかく一報を送りたいので、外報部の記者を呼んでほしい」と伝えた。

「じゃあ、電話を回すから」というので「回線が切れるおそれがある。切れたら二度とつながらないかもしれないので外報の記者を呼んで連れてきて欲しい」と、先輩に向かって失礼ではあったがどやしつけた。

外報部の記者が電話に出て、とりあえず一報を短く伝えた後、「私はすごく興奮しているし、まともに勧進帳で記事がおくれないかもしれないので、私に取材するかっこうでメモしてください」と伝えた。(注・勧進帳とは、新聞社の用語の一つで、あたかも原稿を読み上げているかのように、新聞記事スタイルで電話対応の別記者に記事を送稿すること)

何分くらい話したのだろうか。次に私を車に乗せてくれたジャーナリストが待っていたので、電話を切った。

一足先に市庁舎を出て、外の様子を取材した。その時、ようやく冷静になってこの後の取材の足をどう、確保しようかと悩んでしまった。ヒッチハイクでルーマニア内部に入ることができたのはいいが、国外に出て行くにも、さらに取材に行くにも交通手段がなかった。

しばらく市庁舎の入り口付近でたたずんでいたら、先のジャーナリスト二人組にばったり出くわした。相手は「レンズを忘れているぞ」と車まで、案内してくれたので、これ幸いに「次、どこにいくのか」と聞いてみた。

ティミショアラまで行くという。革命の発火点になった「虐殺」の現場となったところだ。ずうずうしく、そこまで乗せてもらえないかとお願いすると、あっさりと了承してくれた。運が良いと時は、どこまでもよい。

ティミショアラについたころには、すっかり日は落ちていた。大勢の住人は共産主義のシンボルマークをくりぬいた国旗を手に、どこか同じ方向に歩いていた。一緒になってついていくと、目的地は市庁舎のようだった。

市庁舎は何万人もの市民に取り囲まれていた。群衆を分け入りながら市庁舎に近づいていくと、セキュリティーの人間が入り口を封鎖していた。

パスポートを見せ、日本から来たジャーナリストであるということを伝えると、中に招き入れてくれた。そしてどういうわけか二階のバルコニーに連れて行かれた。

眼下には大勢の群集がうごめいていた。私はその様子を撮影していると、「何か挨拶をしろ」というではないか。私は、こうした革命の現場にすっかり酔っていた。風邪もひどくなり熱で浮ついているような感じでもあった。

そして「自由、ルーマニア万歳、革命、万歳」と迂闊にも叫んでしまった。すると群集はそれに応えるように「革命万歳」「自由、ルーマニア」と叫びあっていた。その声はまるで山彦のように何層にも重り、夜空に響き渡った。

が、ここまでであった。私は急に眩暈と、吐き気に襲われた。喉はカラカラになっている。

救国戦線という革命軍側の人間も心配していた。毒を大統領が水道水に流したという噂があったからだ。つまり私は毒にやられたと思われたようだ。

どこか横になる場所を求めていた。横になっていると、次々に人々がやってきて水をくれたりした。私は起き上がろうと何度も試みたが、体のいうことがきかない。

この日撮影した写真を日本に送らなければ。写真電送機や現像キットはハンガリーのホテルに置きっぱなしだ。

困った。何とか戻る手立てを考えなければならなかった。

救国戦線にお願いするしかなかった。すがるような眼で哀願すると、彼らはハンガリーまで行く車を探してくれた。途中で大統領派と革命軍側の市街戦が始まっている情報もあった。

危険で、ひょっとしたらハンガリーまでたどりつけないかもしれない。「それでもいいか」と言われたが、私には選んでいる余地など無かった。「ガソリン切れの心配もある」

と付け加えた。

私は車に乗り込むと、倒れこむように横になった。何時間、微睡んだのだろうか。目が覚めるとそこはハンガリー国境で、私を乗せてくれたドライバーは「ここまでだ」という。丁寧に礼を述べて、謝礼に二十ドルほど渡して別れた。そしてハンガリーへの入国の手続きをしていると、国境警備隊員がブダペストに行く予定のドライバーを半ば脅しのように見つけてくれたのだった。私を乗せてくれたドラーバーはそれぞれに優しく、三台乗り継いでようやくホテルまでたどり着くことができた。

半日ほど、会社から見ると私は行方不明になっていたようだ。カラー現像を浴室で行い、写真を何カットか電送し終えた時には、外はすでに明るくなっていた。

体調の方は万全とはいえなかったが、身支度を整え、カメラ機材や現像セットをパックして鉄路ルーマニア入りを目指した。空路は閉鎖されていたためだ。

ルーマニアの首都ブカレストの北駅に電車が着くと、銃声があちこちから聞こえた。市街戦が行われているようだったが、インターコンチネンタルホテルまで行くしか方法がなかった。そこに特派員が次々と駆けつけているという情報があったからだった。

銃声が一瞬止むたびに、腰をかがめてビルからビルへと移動するしかない。荷物を放り出すわけにもいかなかった。

初めて目にする銃撃戦。初めて耳にする弾の飛び交う音。恐怖で喉はカラカラで、つばを飲み込もうとすると喉に引っかかる。

なんとかとホテルまで辿りつくことができた。途中で片言の日本語をしゃべる男性に出会った。姉がブカレスト大学で日本語を勉強しているという。渡りに船で紹介してもらうと、少したどたどしいところはあったが、問題なく日本語で意思疎通がとれる。街中を色々案内してもらいことにした。

病院に行くと撃ち合いで亡くなった何十体もの遺体で手術室が埋まっていた。初めて見る光景。銃で頭を撃ちぬかれた顔は変形しており、一昔前にテレビに出ていた「くしゃおじさん」のようだった。七〇年代にテレビで注目されていた、あごを自分ではずして顔をクシャクシャに縮めるおじさんのことだ。顔の前面から抜けた弾は後頭部を吹き飛ばし、顔が凹んだようになっている。まるで蝋人形のようで、怖さや悲惨を越えて、ちょっとふざけた顔に見えてしまった。

夕闇が迫っていた。戦車が官庁街を封鎖し、最後の掃討作戦を展開していたようだ。私はそこで待機していた戦車によじ登りストロボで撮影していた。

するといきなり外国プレスの連中が私をつかんで下に降ろした。

「死にたいのか、ばか」となじられた。格好の標的にされるところだったと諌められた。

そうなのだ。ここは戦場なのだ。平和ボケ日本の二十歳代後半の人間は、危険の察知の仕方も、撃ち合いの中での身の守り方一つも知らないのだということを、嫌というほど思い知らされた。

夜。散発的な銃声がまだ聞こえた。遠くを見やると、曵光弾が綺麗な放物線を描いていた。緑色っぽい光跡。まるで花火のようだ。

急激に気温が下がってきたと思ったら、雪がちらつきはじめてきた。

「今夜はクリスマスイブです」と通訳をしてくれたガイドが教えてくれた。すっかり忘れていた。

戦場のメリー・クリスマスとなった人生初体験のルーマニア革命でもあった。